In article <20071010091006.1988.USA / garbagecollect.jp>,
  "U.Nakamura" <usa / garbagecollect.jp> writes:

> 「わかる」ことはそれ自体嬉しいことだと思うのですが、それじゃ
> 弱いということですかね。

しばらく考えていたのですが、「わかる」ということは「意識しな
ければならない」ということでもあります。

たとえば G というものを考えると、LATIN CAPITAL LETTER G とい
う文字を表現したいのか 0x47 というバイトを表現したいのか常に
意識する必要があります。

それを意識すべきだ、という主張なのだとは思うのですが、あんま
り意識しない慣習があるのもたしかだと思います。

たとえば「GIF ファイルの先頭 3バイトは GIF である」とか、
「ISO-2022-JP において JIS X 0208 1983 を使うときには
ESC $ B を使う」とか、ASCII に依存した表現はよく行われます。

ASCII とバイナリを完全に分離するということは、このような表現
をプログラム上で行うときにはその表現が ASCII を前提としたも
のであることを陽に記述しなければならないことを意味します。

たとえば、/\AGIF/ =~ image とかは動かないわけです。
image がバイナリとすれば、内部に LATIN CAPITAL LETTER G とい
う文字は存在し得ないわけですから。

それでもそれが正しいという主張はたしかにあり得ると思いますし、
非 ASCII 環境 (EBCDIC とか) に対してもポータブルになる利点は
考えられるとは思うのですが、それって ASCII を前提にした表現
の慣習を捨てるほど嬉しいものなんですかね?
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[田中 哲][たなか あきら][Tanaka Akira]